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#苦集滅道
#清浄道
#修行道・
ネハンの三段階
#やさしさ
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不殺生・武器よさらばの詩原文
仏教入門2と3に解説
最古のお経の一つとされる経集の935 偈
私も、人々も。 武器を手にとり、人々や情けあるものを、痛めつける。
 そこに、恐怖が起こった。 見よ、人々は、たがいに反目し争っている。
 その心境とそれの克服を語ろう。
 水の干上がる池に、さかなたちが飢えて互いにぶつかりあうように、人々は互いにもがき衝突しあっている。
 それを見て、私は恐ろしくなった。
 人々はいろいろな、生まれ、を受けてさまざまな世界・境遇・に生きているが、どの生存世界も、頼るべき価値あるものではない、それらの生は、あるときは良いほうに向かい、あるときは悪いほうに向かいして、苦しみと悲惨をくり返している。
 一切有情の自己 アートマンがなにものにも左右されず、いこい安らぐ安住処を求めたが、どこにも見つからない、人々はといえば、今の住居・自分・にどっかりと腰を据え安閑としているかと思えば、彼は、なおさら、われこそが絶対である、として敵対し他者を攻撃している。 これを見るとき、私はおぞましくなった。 …その時である。 人々の心に、見がたい矢が、突き刺さっている、のを見た。
 その矢に衝き動かされて、人々は、あらゆる生存の方向へとさまよいはじめている、その矢を引き抜いたならば、さまようこともなく、苦しみ傷つけ合う生存に沈むこともない。 この世に生き続ける限り束縛された多くのものがある。
 しかし。 それらにいつまでも魅了され寄りかかっているのはやめよう、欲望にさらされた、すべてを厭い捨てて。 自己の平和、ニルバーナ・ねはん、を学び修練せよ。
 なれば。 真実であれ、思い上がりを離れ・幻影を離れ・敵意を持ち恨み怒り害することから自由になろう、聖者は・ものを得るに際して・他に迷惑をかけず自分を損なわず・限りなくむさぼり続けず・自我を肥やす欲望を超え出る、眠りや・無気力や・精神の停滞・かたくなさを打ち破れ、怠ける者や・遊びほうけ・を友としてはいけない。
 ニルバーナをめざす者は、今の・思い込み、に留まり続けたのではいけない、偽りの言葉に導かれるな、身体や形態に広がる欲望を起こすな、われこそは、という自我・高慢・を完全に知れ、それらの猛威から自由になって、道を歩め、過ぎ去ったものを追い求めるな、新しいものを待ち望むな、失われていくものを嘆くな。
 われを連れ去ろうとするものにくっついていてはならない。
 欲望こそ、われらを押し流す・大洪水、である、そこに没入し無我夢中になるとき、洪水は激流となる、そして、流れ来る魅力的な物たちが、われらを思うように操る、この欲望の泥沼は渡りがたい。
 聖者は、この真実と少しも離れることなく、流されぬ島にしっかりと立つ、彼は、あらゆる貪欲とその対象を捨て去っていて、彼こそは、静まる人、平和の人と言われる。
 彼こそ知る人であり、体得せる人であり、ダルマを知っていて、かつ、その知恵によりかかる・われこそはと思う・ことがない。
 彼は、この同じ世間に居ながらも、正しくふるまい、ここにいてそれ以上望むことがない、欲望の支配下にあって、この世にあっては克服しがたい、執着や束縛を超え出る人、彼は、嘆かない、心配しない、欲望の洪水を断ち切って、束縛を離れている、過去に積んだ悪いものを干上がらせよ、未来にいかなるものも、わが物としようとしてはならない、いま現在には、何物も握りしめようとするな、そうすれば、心安らかに平和に行くことであろう。
 すなわち、名称・意味づけ・と形態・渇望・に魅了され求愛することなく、それがないからといって嘆き苦しまないなら、彼は、この世において、損なわれることがない、これは私の物である、これは私とは無関係である、という、利己愛がなくなるとき、その人には、利己愛がないから、私のものがない、といって嘆かない。
 ゆるぎなき人の美徳を問うならば、こう答えよう。 彼は、粗野で狂暴でなく、貪欲にむさぼることなく、不満や渇望を離れ、あらゆるところにあって、同一、平等で、融和している。
 欲望を離れた者は、叡知によって働き、私がなす、という作為がない、利己のために、あくせくすることをやめて、あらゆるところに、平和を見る。
 今のままがいいとも、より悪くなるとも、もっと良い状態になれとも、聖者は説かない、彼は、平和にして、利己欲・自我を離れ、得ることもなく・捨てることもない。z(pこのように、世尊は語った。
(最古のお経・Sn935)
お釈迦さんの出家
仏教の目的

涅槃(ネハン)

 仏教の目的はネハンである。ネハンとは幸福な状態である。心が静かで安らかなことである。人間は、眠り足り、食べ足り、遊び足り、働き足り、また名利(名誉と財産)に満ち足りていれば、心は安穏であるが、満足すると同時にまた渇愛(喉が渇くように求める)を始める。

煩悩

 渇愛を始めると、自分で苦しみ、他を支配したり脅かして苦しめる。自利利他ではなく自害害他である。これを煩悩という。煩悩とは求め過ぎることと、それによって苦しむことである。だから、ほどほどに求め、適当に満足すること。そこにネハンの入口がある。これを苦集滅道という。

苦集滅道

苦=文字通り苦しみである

 人生は苦楽の波の如くである。楽しいことが満ち満ちている一方で、子供の死・飢餓・病気・事故・戦争・競争・自殺・死別、などの苦しみに満ちている。過去をふり返れば、二十世紀は戦争の世紀でもある。人は人を騙し、支配し収奪し、私物化するためにこの世に生まれたのかと、目を覆うばかりの惨事が繰り返される。この世は苦である。これは悲観するためのものではなく、真実を観るためのものである。

 

集=渇愛・煩悩である

 楽を生み出すのも、苦を生み出すのも、人間の欲望である。その欲の中で苦しみを生み出すものを、渇愛

(かつあい)といい煩悩という。

滅=ネハン

 人間は自分の欲望をコントロールすることによって幸福を手にすると説く。選欲知足。即ち、良い欲を選んで伸ばし、悪い欲を捨てていく。

道=修行の道、清浄な道

 ネハンへ行くための道である。お釈迦さんがこの道を歩み、弘法大師がこの道を進んだ。目先の欲、本能欲、悪い習慣の欲、何となくの欲、ボーとした欲を離れ、善を行って自分を高める。

 

清浄道

 

 清浄(清い)とは、ネハン=幸福を乱さないという意味である。

 例えば酒を飲めば気持ち良くなるとする。ほろ酔いで、自分も気分良く他人も楽しませるならば、悪い酒ではあるまい。しかし、深酒で体を壊し他者を殴ったりする。これは、ネハンを乱すから清浄ではない。

 もっと深く考えていくと、ネハンは自分のネハン、他人のネハンがあり、世界中の生き物の数のネハンがある。人間の数だけでも数十億のネハンを損なわない、というのが仏教である。

 弘法大師も「衣食なしでは生きられぬ」と随所に示し、お釈迦さんも「この世の生き物は我が命のために他者と競り合っている」と示すように、私たち人間は衣食を分かち合うことすら困難な欲望の虜として生まれている。自分のネハンを壊さず、他者のネハンを損なわないとは実に難題を背負って私たちはこの世に生まれたのである。 

修行道・ネハンの三段階

 他人がどうのこうの、そしてあれがしたい、これがしたいと心をざわめかせる前に、自分に安らぐことである。ここに命があること自体が不思議であり、奇蹟であり、幸福である。もしも今日の食に事欠かず、家族と健康であるならば、只今の自分に満足し、心を休め、自分のネハンを持つことである。

 自分の第一のネハンが得られたら、やるべきことを行うのが第二のネハンである。生きつづけているということは、様々な恩恵を受けているということに他ならない。地球があり、空気があり、水があり、食物があり、労働による生産物があり、人々がある。だから私たちは生きつづけている。実は自分の命とは他者の命の上に胡座をかいている。そして自分ひとりを宇宙から取り出すこともできないし、この恵みを独り占めすることもできない。その恵みに対して、返すことが必要である。それがやるべきことを行うということ。それは、同時に共に生きる人々が、自分と同様の尊厳・価値を持っているという認識でもある。他人の尊厳・痛み・心のネハンを発見するということでもある。

 自分も他人もみんながネハンを得ること。仏教の最高の目的である。真実として皆がネハンを得ることの第一段階として、自分の欲望として、皆の幸福を願うという事がある。もしも皆が皆の幸福を祈るならば、人と人は信頼しあい愛情(慈悲)に守られて、その時既に仏のふところにあって、ネハンを得ている。その祈りが仏であって、だから仏を信じるということは、一分の安らぎを得るのである。

やさしさ

 ある努力家が「自分を誉めたい」と語った。皆その言葉に感動した。自分で自分を誉める。自立した人間がそこにある。普通なら「皆のために頑張りました」と言うだろう。そうすると、そこには、「誉められたい」「期待に応えたい」という欲がある。「欲」に対して満足があるのである。それは不動の喜びではない。仏者は只ひたすら「涅槃」を求める。仏者は名利は求めない。名利とは世間の誉れであり欲得である。仏者はひたすら幸福そのものを求める。

 世間の誉れも国家の英雄と賞されることも、「涅槃」に到る為の一つの「使い」でしかない。赤ちゃんの成長のためにはおもちゃが要り、少年には親の期待が要り、青年には社会の誉れが要り、大人には家族や国家や世界が牽引となる。その時その時の、その人の状態にあわせて必要な欲と対象がある。 

 「自分だけよければいい、他人が傷ついてもいい」に始まり、「金のためなら辛いことも」「世間受けしたい」「誉められたい」「役に立ちたい」「家族のためなら」「人に喜ばれたい」「人類のために」・・・と欲には段階がある。

 しかし、それらは仏者にとっては全て「途中」であり「枝葉末節=使い」である。

 自分が、『生まれてきて良かった』と思うこと、そしてみんなが『生まれてきて良かった』と思うこと。それが仏者の期待する所である。仏教の望みはそれ以上でもなくそれ以下でもない。

 ただし、仏者は、「傍ら痛い」、ということを忘れてはならない。古来「やさしい」という言葉がある。それは他人の苦しみや困難を観て「自分が痩せる思いをする」ということである。「傍ら痛い」とは困っている人の側にいて心が痛むということである。これを仁といい情という。思いやるのではなく思いが伝わってくる。これは妙である。理屈では解決できない痛みの世界=苦の世界の出来事である。

色々な欲をうまく使って自分を高めていくこと、

他人を喜ばせること、

安らぐこと 

痩さしくあること

人が死のうが生きようが

人が死のうが生きようが無頓着なのが現代である

その意味では自分だけの涅槃を得やすい

しかし、他人の心が分からない、

他人の痛み喜びが分からないのでは真の幸福はない

他者が見え、その見えたものを退けずに、その見えた心全部を大切にすることが心の豊かさとなる

今日、人は助け合って生きる事ができる

皆で守り合うのが仏教である

内の平和と外の平和

内の平和とは心の涅槃のことである

外の平和とは戦争・支配・貧困の無いことである

人間は心と環境によって苦楽する

心を成長させること、社会・環境を良くしていくこと

この両輪がなければ人は決して幸福にならない

騙されることなく、驕ることなく

両方の平和へと道は続いている

それを、自利利他という

武器よさらばの偈原文

attadandaa bhayam jaatam janam passatha medhakam

(With weapon ,fear is born. Look at the people who are quarreling.)

samvegam kittaayissaami yathaa samvijitam mayaa/

(I will explane the way how I overcom the grief.)

phandamaanam pajam disvaa maccho appodake yathaa annamannehi vyaaruddhe disvaa

(In watching people who are trembling like fishes in a pond with little water,)

maam bhayam aavisi/(Fear has began to live in me.)

samantam asaro loko disaa sabbaa samerite iccham bhavanam attane naaddasaasim anositam/

(The living place is flowing about all the directins.And every way is froating.

So I couldn't find the place to live confortable without fear of fighting.)

osane tu eva vyaaruddhe disvaa me aratii ahu ath' etha sallam addhakkhim duddhasam hadayanissitam/

(By seeing that we become hostile against our will after all,I became suffering.

Then ,in that very moment, I watchet the arrow attached on the heart difficult to see. )

yena sallena otinno disaa sabbaa vidhaavati tam eva sallam abbuyha na dhaavati nisiidati/

(By that arrow everyone is roaming about quickly to the every direction.

If with drowing that arrow off,we will never flow or sink.)

tattha sikkaanugiiyanti/云々