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2006-02-13 死の恐怖

_ 世間には、ホスピスというのがある。死を間近に意識したひとが、残りの時間をどのように過ごすかというのであろうか。癌の告知、不治の病の告知、その後の生きかたである。

一般論として、キリスト教やイスラム教は、死を乗り越えやすく、仏教は不得手ではないかということになっているという。「この教えを信じれば、死後、神によって救われる」というコトを信じるならば助かるだろうか。死んだら天国に行ける。では、そ天国とは何か。先に死んだ故人が居て、共にまた楽しい会話のつづきができるのだろうか。それとも、死んでもなんにも心配はないよということであろうか。

死は、みんなが通っていくものであるが、未知のものであるだけに、恐ろしいと言えば恐ろしく、わくわくするひとも居ても良い。が、だいだい分からない死が恐い。そして、その後あるのかないのか死後の世界が恐いということになる。

仏教では、死後、生まれるとすれば、仏さまのところへ生まれて、修行をすることになる。葬式もだいたい、修行をしますかしませんかという儀式だから、出家の名としての「戒名」をつける。だから、僧侶は出家した時に、戒名を僧名としてもらっているから、死んでも戒名料がいらない。

ところが、である。その生まれ変わって行くとたろの「仏さまとはあなたの心ですよ」と言われたら、あなたはどう思うであろう。

やはり、このあたりに、仏教の難しさというか、いい加減さというか、やはり、難解さがある。

仏教は、死の恐怖に対してこのようにしか答えられないのであろうか。

1)いまだかつて、死を通り越さなかった人はいない。みんなどんな人でも通り越すことができたのですよ。

2)もしあの世が在れば、その時こそ、仏さまがいっしょです。いっしょに仏さまの慈悲に包まれて、修行しましょう。修行が嫌な人は、致し方ありませんが・・・。

_ 現世の修行で、死は乗り越えられるとも言えるし、乗り越えられないとも言える。

私たちが考えている死、厳密には私が考えている死を乗り越えることはできるだろうが、想定外の死、即ち、予想しない新しい生がやってきた時、あたふたとしない状況は、予想的な覚悟だけではもともと無理かもしれない。しかしそれは杞憂であろう。

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_ 野ばら (2006-02-13 23:27)

それはつまり現世の修行では死を乗り越えられないということなのでしょうか?
何かに頼ろうとするから辛くなるということはないですか?
それとも余程辛いことに出会ってしまったのでしょうか?
死への道を選ぶということは、今あるものから永遠に離れるということですよね。もしかしたらもう二度と会えなくなるかもしれないことでもありはしませんか?生きるための努力、修行を放棄してしまうということでしょうか?
生きるための修行と死後での修行ではどちらが重いのでしょう?

_ 紀風 (2006-02-14 09:40)

死後の世界については憶測であり、
特定の宗教観のない私にとっては、
あまり死後の世界を考えることはないです。
死んだら楽になる、死んだらその先も修行である…
そのどちらも、今の生を真剣に生きるための、先人達の知恵のようなものではないかと思ったりする。
こんなことを書くと、宗教家の方や信者の方たちには失礼かもしれませんが。
「人は泣きながら生まれてくる」
人はそれぞれ課題を持って生まれ、
この世で生きることは、魂を磨き、気付きを得る修行のようなものだと思っています。
死後は楽になると思うから、今を一生懸命生きれるとも言えるし、
死後が現世の行いによって決まると思うから、今を真剣に生きるとも言える。
どちらも、人の業を乗り越えるための支えなのではないでしょうか。
私は、死を乗り越えるというのは、生の真の意味を知ることであり、その素晴らしさに気付くことだと思います。

人は相対的なものを体験をしないとその意味がわからないといったことがあります。
病気になって健康の意味を知る。
戦争になって平和の意味を知る。
不幸になって幸せの意味を知る。

でも生死はそういうわけにはいかないですね。
生きていて生きている喜びに気付くというのは、九死に一生でも得るというような体験でもしないと、なかなか難しいのかもしれません。

私が死にたいする恐怖を感じるとしたら、
それは後悔に対する恐怖かもしれません。
「こんなはずではなかった」
「もっと、こういう風に生きたかった」とか。
今を精一杯に生きていると実感できれば、
後悔も無く、死も怖くないと思えるのです。
精一杯というのは、楽しいことにも苦しいことにも真摯に向き合って、魂を磨いてきたかということ。
自分の心・魂は、いくら本人が言い訳や誤魔化しをしても、真実を知っているものなのではないでしょうか。
だから、生まれ変わるということは、その心や魂に改めて向き合い、また課題を持ってやり直しをすることだと思うのです。

苦しいことに出会ったら、そこに自分の課題があると考える。
自分に起こることは全て必然と考えれば、感謝の気持ちを持つことができ、
前向きに生きていけるような気がします。

ホスピスは、生への執着から感謝の気持ちに変わることによって、死を受け入れ、安らかな心境になるためにあるような気がします。そこには、人が人として生まれ、人として死んでいくという人間の尊厳が存在してるのではないでしょうか。

自ら死を選ぶ人のことを、逃避と非難する気持ちはありませんが、
生きていることは、それだけで素晴らしいのだと、自分は生かされている尊い生であるということに気付いて欲しいなぁと思います。
傍観者ではつまらない、生きている限り、いつからでもやり直しはできる。

死を間近に控えた人でも、その意識のやり直しが可能なのだから。

野ばらさん、依存は辛いでしょうね。
依存には、自分が無いですから。
自分が無い状態とは、自分に向き合わないということだと思います。
宗教は、依存するものではなく、自分の中にある愛と感謝に気付くものではないでしょうか。
それが時として、今を生きる支えになるのだと思います。

思うままに長々と書いてしまいました。
熱苦しい人間ですが、今後ともよろしくお願い致します(笑)






_ 野ばら (2006-02-14 22:32)

紀風さんのお考えは素晴らしいと思います。改めてああそうだった、と自分を振り返れたりもする。
と・・それはさておき、お言葉ですが紀風さん。現在私は依存していません。確かに過去に於いてそんな時もありましたが・・・。今は自分の意思で生きているつもりですなのですが、まだ未熟ですか?

_ 野ばら (2006-02-18 22:20)

紀風さんへ
 「野ばらさん・・」と文章が始まっていたのでてっきり私に向けられたメッセージと受け止めてしまいましたが、もしかしたら違っていましたか?

 ・・生きる希望はどんな時にも見失いたくないですね。私ももう一度自分という人間に向き直ってみたくなりました。

_ 紀風 (2006-02-22 20:57)

野ばらさん、書き込みがすっかり遅くなってしまい、ごめんなさいね。
野ばらさんが依存しているとは全く思っていませんよ。
野ばらさんの文章に書いてあった依存のことに同感ということだったのです。
野ばらさんが未熟というより、
私は自分がまだまだ未熟だと思っています。
それは、自分で感じることであって、未熟だから、成長できる余地があるともいえると解釈しています(笑)
野ばらさんは、真っ直ぐな人だと感じます。自分に真実であることが大切ですね。

_ 野ばら (2006-02-22 21:54)

お久し振りです、紀風さん。
紀風さんのような方に同感頂けるとは感激です^.^
確かに未熟は成長できる余地、可能性がありますね。自分次第でどんな方向にもいける。
「自分に真実である」いい言葉ですね・・思いがけずドキッとしたりしている自分を発見していたりして。私は自分の気持ちを誤魔化して生きているかもしれないと思うことがあります。伝えたくても伝えられない気持ちはどうなっていくのでしょうね・・。

_ しんりょう (2006-03-09 20:09)

死後の世界=地獄とエンマ様。我に罪なしと思われる方は堂々といきるでしょう。我に罪ありと思われる方は何処となく当らず触らず。重大になればなる程に複雑な環境で生きる方もいるでしょう。キリスト教は無いと言われます。単純に死後の苦を死の瞬間まで抜いていこうでしょう。仏教と密教はあると言います。しかし 条件によって、地獄への回避の道もあると言います。仏教と密教を信じます。

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2006-02-13

世間には、ホスピスというのがある。死を間近に意識したひとが、残りの時間をどのように過ごすかというのであろうか。癌の告知、不治の病の告知、その後の生きかたである。
現世の修行で、死は乗り越えられるとも言えるし、乗り越えられないとも言える。

2006-02-14

ブッダは言う。
やっと政治の舞台でも、給料格差、日本国民の貧富の差が問題になり始めた。先進国の中で、日本国は米国に次いで、貧困率が高いのだそうだ。(米国17.1%日本国15.3%)。「痛みを伴う小泉政治」は、特定の人に痛みを押しつけて、しっかりと機能していると言っていいだろう。
そこで、先頭のブッダの言葉を噛み締めるわけである。

2006-02-15

ブッダの仮定
追加 おばちゃんはアパートへ移り住んだ
発狂するのでしょうか
私は一度だけ人を殺そうと思ったことがあります。

2006-02-16

オリンピックでも巨体もあれば小さな体もある。別に健康なら体躯の大小は構わないが、インドで出会った民族が違うだろうそれぞれの人々は、確かに歴史の差別を体に刻んでいて、見るからに小さな栄養失調の子どもたちが居た。その一方で、ガリバーの邦の様な巨人が逞しく颯爽と着こなしているのを見れば、インドというのは、巨万の富と、最低の貧困が同居している無法地帯のように映った。残念ながらその日は、マザーテレサに会い損ね、その代わりに、山羊の供儀に出会った。雨が降っていて、野菜の腐った束が路地のあちこちに散乱しその傍らを赤い眼の野犬がうろつきその横に幾人も毛布に雨を湿らせて子どもたちが寝ていたのを私は悲しい思いで通り過ぎた。
そんな時代というか今も変わらぬこの地上に、ブッダは、底辺の人々とともに無一物を誇って生きたのだろうか。

2006-02-17

こころが通う瞬間を大事にしたい

2006-02-19

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鬱の時は休む。エネルギーがたまるまで休む。
社会は、ますます、首閉め社会になっているように思う。
チェックというらしい

2006-02-20

米軍開始、小泉首相協力のイラク侵攻が始まった時、不殺生祈りの会は、80カ寺の賛同を得て、不殺生殺さない、殺させないの祈りをした。その時、私は代表であったが、観音寺さんを誘って、坊ちゃん広場で座禅という座り込みをした。
しかし、イラクでは殺人は止まらない。
お釈迦さんならどうする

2006-02-21

そんな三つの心はあるのだろうか
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お釈迦さんは、おだやかな平和心を心せよと言ったと説教した。
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2006-02-22

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2006-02-23

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2006-02-24

先の、アルノ・グリューンはこう語る。
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この議論は別に目新しいものではないだろう。

2006-02-25

先の、アルノ・グリューンはこう語る
と言う。
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・・・どうでしょう。
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2006-02-26

そういえば、これもかのフロイトが提案した一つの「同一化」の問題だろうか。
その結果、世界の人々を苦しめたヒトラーに自ら服従した人々を考えたい。

2006-02-27

サルトル、占領下のパリで、
さて、私たち人間は、楽しみの中では、より良い生き方は発見できず、却って苦しみに焦点を当てる中で、自分自身も再生して、というか自己を再発見して、自他の苦しみを除く活動に入れるのか。
最古の経にはたしかこうである。

2006-02-28

昨日のサルトルの
その時、一つの観念が起った。それは、情が深く、人間的で、潔白な人の群れの思考である。類(るい、たぐい)という存在である。類は非存在である。存在は個である。しかし、そのようなひととしてき存在は存在するといえばそのような仕方で存在する。しかし、そのような人になろうとする時、そのような人は手からすり落ちるから、そのようになろうと意気込む瞬間だけが通過点として存在するのだろうか。
類という考え方は、仏教のなかにもある。法身という考え方だである。その前身は、「覚り」は永遠との観念思考である。もう一つは、ブッダもこのようにした。私もそのようにしている。それは普遍の、時と場所を超えたものである。それは特別なものであるという思考である。だからどうしたといえば、それだけのことである。