ぶつぶつ,心と世界の平和,悩み苦しみ何でも相談 石手寺の仏教


2006-02-27 痛みの感覚こそ、自己破壊の悪循環を断ち切る唯一の方法だ

_ サルトル、占領下のパリで、

「パリジャンの生活は物質的にはさして以前とは変わらないように見えたが、ことに精神的に、この(ドイツ)占領体験はひどい試練だった。・・・

しかし、そこには憎むべき、顔を持たない敵がいた。この敵を見た者は、ほとんど帰ってこなかったので、この敵については誰も詳しく語れなかった。だが、その敵は確実にいてパリジャンは、その身内や友人がどこかへ拉致されたり、殺されたりした経験をしている。・・・・

人々はレジスタンスという投企に身を委ねていた。・・・レジスタンスは象徴であり、拷問だけが真実だった。・・・占領はこうして戦争よりも恐ろしいものだった。」と。

_ 過去を振り返るのはこんなにも恐ろしいことなのかと思う。この国でも横浜事件のように、戦争中国家によって拷問殺害され、この現在もその罪を国家が認めないという事例は多々ある。

_ さて、私たち人間は、楽しみの中では、より良い生き方は発見できず、却って苦しみに焦点を当てる中で、自分自身も再生して、というか自己を再発見して、自他の苦しみを除く活動に入れるのか。

より大きな苦しみを避けるために、本来の自己を封印したから、再度苦しみの痛みによってしか、再生は不可能であるという。この場合、しかし、本来の自己といっているものは、自分の痛みを通して他者の痛みを共感できる、ひろびろとした自分である。ひろびろというのは、自他に起こっているすべてを認めてかかるあり方である。

_ 広島平和資料館のもと館長高橋さんは「平和とは人間の痛みが分かること」と言われたが、「痛み」こそが、人類が人間たりうる入り口なのであろうか。そうするとブッダは、苦を逃れよと諭したが、その意味は、苦を理解せよに変更されるのではないか。

_ 最古の経にはたしかこうである。

「人々が武器を取り、戦うのを見て、私は恐怖に包まれた」

まさにサルトルも見ていた世界の痛みをひしひしと身に感じたものでなければ、ブッダの入り口にも立っていない。逆に、痛みを痛感する者は、ブッダの半ばを越えているのかもしれない。

苦を逃れる筈の仏教が、実は辛酸を舐めることを抜きにして成り立たないとは、この世の苦である。

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]
_ 野ばら (2006-02-27 20:37)

何だか心中穏やかと言えない状態なのでしょうか?

この世に悪は存在しないと思いたい。
もしも存在するとしたら、それは人の心が創り出したものだと思いたい。
何故、悪がつくりだされるのでしょうか。
考えたことはありますか?

それから、組織には冷淡なところがあるかもしれません。たとえば企業のリストラなど。しかしそこで関わり働く人々は暖かな心を持つ人が大半だと思います。

あなたは今、本来向き合わなくてはいけないパートナーと前向きにきちんと向き合っていますか?

_ 雪見大福 (2006-02-28 17:07)

 他人の痛みを他人事として、見えないふり知らないふり関係ないふりを続けるならば、自分の痛みにも振り向いてもらえず共感されず、なにも解決せず、乗り越えられないと思います。人々の痛みはときに連鎖的であったり社会性があったりするので、共有する中で何か糸口や出口が見出せるかもしれません。
ただ、「他人の痛み」と一口に言ってもこの世にもあの世にも他人の痛みは山のように存在していて、身近な人の心身の痛みから、国の内外、過去の戦争や飢饉などありとあらゆる「他人の痛み」を片端から我が身に引き寄せて本当に大丈夫なのか、果たして人間の心の容量は?と思ったりもします。しかも、ただ共感したり念仏を唱えたりするだけでは本質的には何も変わらないわけでしょう。そして真に痛みを理解し痛みに向き合うならば、行動力を持たねばならないと思います。   
「勇気こそ地の塩なれや梅真白」、これは松山出身の俳人、中村草田男の俳句です。「地の塩」とは聖書マタイ伝の一節にある言葉だそうで、諸説あるものの、世の中の不正や腐敗を防ぐ者のことだともいいます。怒涛のように渦巻くこの世の悪や苦に、正面から体当たりする勇気を草田男はめざしていたのでしょうか。そしてその勇気は人間的な暖かさや清廉潔白な精神に裏打ちされたものである、と言っているように私は解釈しました。

_ 紀風 (2006-03-10 09:00)

雪見大福さんの意見に同感です。
人間の心の容量を広げるために、人は苦しんだり悩んだりもするし、痛みに向き合い何かを伝えよう行動しようと試行錯誤するのだと思っています。
今の時代、特に「地の塩」が必要になってきているように思います。






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最近の更新

2006-02-05

テーラーガーターお釈迦さんの尼弟子のことばです
お釈迦さんが、現実逃避していたとは到底おもえない。
やはり個人の尊厳、個の確立、個の尊さを体験していく、修行していく必要が大きい。

2006-02-06

「えひめ丸事件」語られざる真実を追う、を今読んでいる。昨日紀伊国屋で手に入れた。思いの外この本は店頭に山積みされていた。みなさんが手にとることを切に期待する。

2006-02-07

牧師さんや外人さんや平和を愛する人が「国際交流」を気にしながら集ったのだろうか。白人も黒人も黄色人もキリスト者もモスリム者も仏教者もいるという小さな世界での語り合いだった。日頃、日本人(日本人というのがどんな動物かは知らないがというより私はたまたま日本に居合わせかた人々と言うのだが、この場合は自分は「日本人以外ではない」という踏み絵を気にしている人々のことだろうか)だけで話をするとますます妄想は激しくなっていくように思われる。妄想とは、自分を自分以外で支えようとする「人の目」や「村社会」や「悪しき和」である。
言い換えれば「ひとの痛みを分かる事」は積極的な平和構築である

2006-02-08

それは誰のことかと聞かれたら、たぶん自分かなと思う人は多いだろう。そのように書いてある。
同じ言葉が別のことを言うことがある
学問とは
世間と出世間

2006-02-09

わたしたちには、わたしたちの、よろこびがある

2006-02-12

森では小鳥がさえずり、家々では子どもたちが、せっせとバレンタインデーのクッキーを造っている。

2006-02-13

世間には、ホスピスというのがある。死を間近に意識したひとが、残りの時間をどのように過ごすかというのであろうか。癌の告知、不治の病の告知、その後の生きかたである。
現世の修行で、死は乗り越えられるとも言えるし、乗り越えられないとも言える。

2006-02-14

ブッダは言う。
やっと政治の舞台でも、給料格差、日本国民の貧富の差が問題になり始めた。先進国の中で、日本国は米国に次いで、貧困率が高いのだそうだ。(米国17.1%日本国15.3%)。「痛みを伴う小泉政治」は、特定の人に痛みを押しつけて、しっかりと機能していると言っていいだろう。
そこで、先頭のブッダの言葉を噛み締めるわけである。

2006-02-15

ブッダの仮定
追加 おばちゃんはアパートへ移り住んだ
発狂するのでしょうか
私は一度だけ人を殺そうと思ったことがあります。

2006-02-16

オリンピックでも巨体もあれば小さな体もある。別に健康なら体躯の大小は構わないが、インドで出会った民族が違うだろうそれぞれの人々は、確かに歴史の差別を体に刻んでいて、見るからに小さな栄養失調の子どもたちが居た。その一方で、ガリバーの邦の様な巨人が逞しく颯爽と着こなしているのを見れば、インドというのは、巨万の富と、最低の貧困が同居している無法地帯のように映った。残念ながらその日は、マザーテレサに会い損ね、その代わりに、山羊の供儀に出会った。雨が降っていて、野菜の腐った束が路地のあちこちに散乱しその傍らを赤い眼の野犬がうろつきその横に幾人も毛布に雨を湿らせて子どもたちが寝ていたのを私は悲しい思いで通り過ぎた。
そんな時代というか今も変わらぬこの地上に、ブッダは、底辺の人々とともに無一物を誇って生きたのだろうか。

2006-02-17

こころが通う瞬間を大事にしたい

2006-02-19

お釈迦さんは、うきうきし過ぎてもいけないし、ふさぎ込んでもいけないと言っているが、鬱はつらい。つらいしつらいだろう。
鬱の時は休む。エネルギーがたまるまで休む。
社会は、ますます、首閉め社会になっているように思う。
チェックというらしい

2006-02-20

米軍開始、小泉首相協力のイラク侵攻が始まった時、不殺生祈りの会は、80カ寺の賛同を得て、不殺生殺さない、殺させないの祈りをした。その時、私は代表であったが、観音寺さんを誘って、坊ちゃん広場で座禅という座り込みをした。
しかし、イラクでは殺人は止まらない。
お釈迦さんならどうする

2006-02-21

そんな三つの心はあるのだろうか
・・・世界には痛みが今この時もいくつもいくつも起こっている
お釈迦さんは、おだやかな平和心を心せよと言ったと説教した。
V.E.フランクルは言う

2006-02-22

苦しみをテーマにしながら、最近楽しかったこと

2006-02-23

ひとは何故ひとを憎むのか。憎しみ。という怪物。
愛と憎しみは地球の表と裏、太陽と月のように愛しては敵対し殺し助けようとするのか。

2006-02-24

先の、アルノ・グリューンはこう語る。
本来の自分、愛せること、自分らしくあることを封印し、それを嫌い排除する。そうすると、自分の中にといっても、実際には、自分の心の一部に、「嫌われた他者」が出来上がる。しかし、その嫌われた他者とは、最も自分らしい自分であり、それは、いきいきと生きること、創造的であること、人を愛せること、を行う自分である。
この議論は別に目新しいものではないだろう。

2006-02-25

先の、アルノ・グリューンはこう語る
と言う。
金も名声も権力もいらない、出て行きますと言う人たちです。
・・・どうでしょう。
自分らしさというのはむつかしい言葉です。私は、「あらゆるしがらみから解放されて、且つ自分のしたいことを積み重ね、他者との経験の積み重ねの中で育ってくる、より良い意欲と意思に導かれた生き生きとした自分」とでも言いましょうか。

2006-02-26

そういえば、これもかのフロイトが提案した一つの「同一化」の問題だろうか。
その結果、世界の人々を苦しめたヒトラーに自ら服従した人々を考えたい。

2006-02-27

サルトル、占領下のパリで、
さて、私たち人間は、楽しみの中では、より良い生き方は発見できず、却って苦しみに焦点を当てる中で、自分自身も再生して、というか自己を再発見して、自他の苦しみを除く活動に入れるのか。
最古の経にはたしかこうである。

2006-02-28

昨日のサルトルの
その時、一つの観念が起った。それは、情が深く、人間的で、潔白な人の群れの思考である。類(るい、たぐい)という存在である。類は非存在である。存在は個である。しかし、そのようなひととしてき存在は存在するといえばそのような仕方で存在する。しかし、そのような人になろうとする時、そのような人は手からすり落ちるから、そのようになろうと意気込む瞬間だけが通過点として存在するのだろうか。
類という考え方は、仏教のなかにもある。法身という考え方だである。その前身は、「覚り」は永遠との観念思考である。もう一つは、ブッダもこのようにした。私もそのようにしている。それは普遍の、時と場所を超えたものである。それは特別なものであるという思考である。だからどうしたといえば、それだけのことである。