2006-03-04 見解が論争を招く
_ 論争というのは、論じ合った結果、争いになるということだろうか。
論争に勝つよりは、対立の方が苦しい。
だからお釈迦さんは、見解ではない、平和なことだと語ったのか。
後から分かる喧嘩の後。
またまた変なことを言ってしまうが、その前に自分は大学に合格した時、「自分は努力したのだから当たり前」と思ってしまったことを懺悔しなければならない。その上で、オリンピックの金メダルの瞬間、負けた人々のことを思って心が曇るということはあるのだろうか。
同じ実力?、それ以上の努力をした他人が、メダルに届かず泣いている。その傍らでメダルを貰う。称賛と喜悦の中でも、隣人が泣いていたなら、喜びも半減するというか、別の仕方の狂気ではない喜び、ひょっとしたらもっと人間的な喜びがあるのではないかと、酸っぱい葡萄的に思ってみたりする。
先述のように、自分は大学合格して、他者を押し退けている後ろめたさや、他者の痛みに苛まれなかったのだから、言える立場ではない。
加藤俊行方丈師匠は、私が高校に行く時にこう言って遮った。
「(高校以上の)学校は、競争するところだから行くな。僧侶は争っては行けない」と。そして、別のところでは「そんなことに汗水流すお前が可哀相だ」とも語ったと記憶している。
仏教徒は争ってはならない。それは方丈師匠の信念だった。その子が、受験戦争をしていることは、つらかったと回想する。
「お前は他者(ひと)の痛みが分からんやつだ」とも言われた。
他人を見ていて口走ってしまうことがどうして自分にはできないのか。
歳が経き、多少我欲も納まったか納得して、鮮烈さは失われたが、他者が朧げに見えようとしている。
それでも、観念的に、私はひとを退けて来たことを記憶している。
_ どうして
何かがうまくいかないのだろう。「他者の痛みを分かる」。どうせだれも出来やしないじゃないの。というなら。せめて、他者に痛みをもたせることだけはやめようと。その謂いならば、しかし、皆、同様に言っている。「他人に迷惑だけはかけるのじゃないですよ」。それで充分で、それ以上の見解、見識をひけらかしても何も始まらない。
充分だと思う。それ以上の、つまり、「ひとの痛みを感じる」以外の、それ以上の、崇高なものなどないのだ。ならば、ひとを直視しなければ、痛みは零れていく。あたかも始めから無かったかのように。
_ 今日は、多くの方と久しぶりに語り合った。つじつま合わせのようなミラクルなような何もないようでやはり同年代とは通じたような通じないような、会話の果てに見たものは、皆、何かを怖がっているのか、または、期待しているのか。
_ そうだ、ブッダが言った。
第一の罠は、期待である
第二は、恐怖、他者を畏れることである。つまり先制自衛。
先制自衛が、私の人嫌いだろうか。ひとの痛みを避ける作法の裏打ちなのか。他者を何故畏れるのか。見えない。いやいや、見ないからではないか。なぜ見ない。
見なくても生きて来られた。
そうだ。
その事を、今朝の悩み相談の来訪者は私に告げた。
見なければ生きていけないようにしなくちゃと思ったスラム通いの日々が懐かしい。
_ でも、だからこそ、阪神震災やスマトラ震災に頭をねじこんで何とか頭の活性化を強要しようとしたのに、何故か世間体が邪魔して、成就しなかったと、弁解するのか。
卑怯者とは、自分のことをいう。
だからブッダは、「欲望に制圧されるな」と、説き続けた。
欲望とは他者の眼、世間体であり、賞賛であり、保身である。なぜ、それほどに生きたい。
何となくサルトルやブッダが近くに見える夜である。
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何かの目標のために真に精一杯努力した。その結果勝利を手にできず泣いていたとしてもその涙は負けた悔しさだけだろうか。
私事ですが、今日ある命ももしかしたら・・・
同じ病で僅かの時間の差が生きることの明暗を分けた人がいました。
その人や同じ病で戦っている人たちの希望のひとつになれたら・・そんな気持ちで今日の命を生きています。
だから、折角授かった命を無駄にしてほしくないなと思うのです。
人を退けてきた人には、残念ながら、られる側になってしまった人たちの分も頑張ってほしいなと思います。
確かに仏教徒は争ってはならない世界で生きています。しかし、その世界に意義を申しているのが、今の世の中と思います。運動会の駆けっこの一等商品もあれば、絵の銀賞金賞商品もあります。駆けっこ一位になれない子供であっも、絵で銀賞金賞が取れなくても、他で一等商品にみな一つは出会います。それも心の支えになり みな生きていると思いますよ。
ご自分を 卑怯者と判断されなくても大丈夫ですよ。みなは 熱血坊さんと判断されているとか思います。私だけかな?笑笑
子供が保育園通う頃に聞きました。子供は喧嘩をして 優しさを覚えると聞きました。当時は意味がよく解りませんでした。実家の喧嘩は血なまぐさく、憎しみ合いの末でした。二人の息子の兄弟喧嘩を思い出すと、今は 意味が解るようになりました。だからと言って血なまぐさい喧嘩を認めている訳ではありません。
競争社会の行き詰まりが来ています。
競争に勝ったというだけでは、幸せになれないことがわかってきているのかもしれません。
それでも、人は、比べたがる。
自分の存在を、人との競争や勝ち負けの中に見出そうとするなら、
心の平和は得られないのではないでしょうか。
子供は喧嘩します。喧嘩は必要なのです。
我が家の3人の子供も、毎日激しいバトルを繰り広げて、私をイライラさせます(笑)
しかし、私は勝者の子供に言います。
「自分ひとりがいい思いして幸せ?」
「自分が勝って、そんなに幸せ?」
この問いと考える過程は大切だと思います。
独り占めしたら、自分だけが笑顔。
分け合ったら、みんなが笑顔、どっちがいいの?
そんなことを、ひとつひとつ体験させ考えさせる場が少ないことが、気にかかります。
そんなことを経験せずに、ひとの痛みがわかるような人間にはなれないと思うのです。
人を傷つけ、人から傷つけられ、
そこで喘ぎ苦しみ、そして、ひとの痛みがわかるようになるのではないでしょうか。
その過程で、人を信じることができなくなった人間が、いろんな悲惨な事件を起こしたり、自分の殻に閉じこもったりしているような気がします。
今は、大人が子供が傷つかないように過保護に護り過ぎているような気がします。
もっと、いろんな感情を味わって、それを乗り越える術を身につけさせるべきだと思います。
論争は、勝ち負けの結論より、その過程でそれぞれが、何かに気付くことが重要だと思います。
スポーツの世界には勝敗はつきものですが、勝敗にこだわった人は、オリンピックの女神には微笑んでもらえないということもよく感じます。
真摯にそのスポーツを愛しているものに捧げられる賞賛。
そんなことをちょっと感じたりしました。