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2006-06-30 外界がないというのではなく自分の煩悩が不安定だといっている

_ 外界がないというのではなく自分の煩悩が不安定だといっている

。般若心経は外界に拘っている。

スッタニパータで釈尊は(釈迦没後100年は経っていたが)、カーマつまり欲望に塗れた時に苦悩が起こると説いた。いやいや、苦悩がある時、欲望に原因があると説いた。何も外界があるとか無いとかは言及しなかった。

しかし、般若心経を読んでいると、外界に原因があるような気になってくる。外界が本質的には空なのだ。その読み方であるが、空という頼りないものだという気分である。

そうではなくて、外界そのものがあるのかないのかは分からないのだが、それを捉える私たち自分自身に不安定要素があると釈尊は言っているのではないか。

私たちの観る見方、主体の不安定性を問題にしている。

不安定な者が見れば世界は不安定に見える。いや不安に見える。不安ではどうもこうもない。どうもこうもない、争いや不安におののいて恐れているのが問題だと釈尊は言ったのである。そんなことで何事も見えも解決もしないと語った。

問題は世界や外界や諸物にあるのではなく騒ぐ自分自身にあると断じたのではないか。

そういいながら増加する貧富の差やパートや人殺しや戦争は心の問題ではない。他者の心の問題と深く繋がって、他者の煩悩が他者の苦難を生み出す。






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さて、先師は、無自性故取善去悪と言われた。
そしてプラジュニャーが良く、ビジュニャーやサムジュニャーは良くないという。分別知と概念知はだめだという。プラジュニャーは当知、正に今知ることである。
十字軍が聖地奪回に進軍した時、ある老女が立ちはだかったという。右手にたいまつを持ち、左手に水瓶を持ちこう言った。
正に、無自性を語る内実ではないか。ものに善し悪しはない。ならば、当知によって自分が生きたい様に生きるべし。ならば、他者も生きたい様に生きるべし。あるいは、自分は生きたい様に生きるべし。他を遮って損ない自己を守れと。
善と悪とはその分かれ目に咲いた花である。花といえば鼻であり端である。その最先端が善悪である。善悪は苦楽である。ただし自分の苦楽をのみ扱うのか、他者の苦楽を混同して扱うのかである。また、端は端正である。端正とは身を正すことである。身を正すとは反省することである。反省とは、プラジュニャーではなくビジュニャーでありサムジュニャーである。
不可解な宗教である。釈尊にしても、弘法大師にしても、同様に不可解な選択をしている。

2006-06-30

外界がないというのではなく自分の煩悩が不安定だといっている