石手寺の文化財  |
|
国宝 |
|
市指定の説明 |
|
|
 |
石手寺は真言宗豊山派の古刹で、四国八十八か所51番札所である。寺伝によれば聖武天皇の神亀5年(728)年に勅宣によって大領・越智玉澄が伽藍を創建したという。
この二王門は、『伊予古蹟志』に、河野通継が文保2年(1318年)に建立したとの記事が見られる。三間一戸楼門、屋根は入母屋造、二軒ふたのき、本瓦葺で、二階の床は張らない。建築様式は和様で、円柱上の三手先の腰組で回縁を支え、中備なかぞなえとして正・背面には蟇股かえるまたを、側面には間斗束けんとづかを置く。軒も同様に三手先で受けられるが、この中備はすべて間斗束となる。軒の反りや張りをはじめ、建物全体の均整はよく、全国の楼門の中でも屈指の優れた作品と評価され、なかんずくその蟇股は、鎌倉期の特徴を備えた傑作との名声を博している。門の左右室には、運慶一門の作と伝えられる金剛力士の逞しい立像が安置される。
|
|
重要
文化財 |
|
|
|
|

 |
この建物は、石手寺の国宝・二王門をくぐった右手にそびえる三間三重の塔で、高さは24.1m。各重とも円柱上に和様三手先の組物を置き、軒は各層とも二軒ふたのき、平行繁垂木しげだるき。中備なかぞなえにはそれぞれ間斗束けんとづかを備えるが、初重のみは斗があって束つかを欠く。初重には切目縁きりめえんを、二・三重には縁・組高欄をめぐらせる。棟から中天に伸びて九輪・水煙を支える心柱は、降って三・二重の中心を貫通し、初重の四天柱の頂部に架けられた梁で受けられる。心柱が心礎石に達しないこの構造は平安時代末期に始まり、鎌倉時代の塔に多く用いられた手法である。
|
|
|
 |
この本堂は、国宝の二王門とほぼ同じ時期の建築とされているが、嘉永6年(1853年)の同寺を描いた古絵図には阿弥陀堂の呼び名が書き入れられ、現在の阿弥陀堂を本堂としている。
建物は、桁行(正面)5間、梁間5間、一重、入母屋造、二軒ふたのき、本瓦葺である。その様式は和様で、円柱の上に一手先の組物を置き、中備なかぞなえには間斗束けんとづかを置く。正面5間の総て、両妻面の表側2間と奥側1間、それに背面中央1間は両開きの板唐戸を吊り込み、四周に幅3尺5寸の切目縁きりめえんをめぐらせる。内部は外陣げじん・内陣に分けられ、内陣の正面に須弥壇しゅみだんが置かれる。たびたび修理が行われているが、各所の手法は力強く、鎌倉時代末期の建築の特徴をよく残している。
銘札1枚、棟札3枚が併せて指定されている。 |
|
|
 |
この鐘楼は、三重塔の南側に位置する。元弘3年(1333年)の再建と伝えられる。桁行3間、梁間2間、屋根は入母屋造、二軒ふたのき、桧皮葺ひわだぶき、袴腰はかまごし式の鐘楼である。様式は和様で、袴腰上では三手先の斗きょうで回縁・組高欄を支え、上層屋根も同じく三手先の斗きょうで軒を受ける。これら組物は共に繊細華麗な造りが目を引く。
楼上には、建長3年(1251年)在銘の銅鐘(重要文化財)が吊られる。
建物の容姿は清楚でよく安定し、傑出した出来栄えの鐘楼との評価を得ている。 |
|
|
 |
三重塔の東に位置する堂宇であるが、創建の時期を明確にする史料を欠く。桁行・梁間とも3間の建物で、一重、屋根は宝形造ほうぎょうづくり、銅板葺(元は桧皮葺)。様式は和様で、面取り方柱の上に舟肘木を置くだけの簡素な造りであるが、柱ごとに一本の垂木を用いる大疎垂木おおまばらだるき(間配垂木まくばりだるきともいう)の手法が見られる。
内部の床は総て拭板ぬぐいいた張りで、護摩木を投じて修法する火炉は見られず、奥に来迎らいごう柱・来迎壁を設けて須弥壇を置くが、転用材を用いるなど仮設的である。これは藩政時代に大師堂と呼ばれていたこととも符節する。全体の容姿及び構造・表現の技法からして、室町時代前期の建築と推定されている。 |
|
|

 |
三重塔の奥の一隅に位置するこの小社は、鎌倉時代後期、河野一族が勧請した十六王子社の遺構とも考えられる。一間社流見世棚造いっけんしゃながれみせだなづくり、桧皮葺。
組物や妻飾の懸魚げぎょに優れた技法を見せ、特に正面の水引貫上の蟇股かえるまたは、国宝・二王門と手法を同じくし、これと同時期の創建とする根拠となっている。
訶梨帝母天は別名鬼子母神ともいい、この社前には、今も中世の修法の名残が受け継がれて、安産を祈願する人々が丸い小石を供えるなどの信仰が寄せられている。
寺院の中にありながら、県下最古の神社建築の遺構として貴重な建物である。 |
|
|

以下画像は松山市HPのものです |
この石造五輪塔は、総高273cm余り、花崗岩製の巨大な石塔で、保存状態がよく、損傷もみられない。当初の姿をよく残しており、地輪・水輪・火輪・風輪・空輪の五輪の均勢がとれ、見るものに重厚で優美な感じを与える。
五輪塔は宝篋印塔ほうきょういんとうとともに、わが国の石塔の主流をなすもので、宗派をこえて造立され、仏教で言う五大ごだいを象かたどったものである。年紀銘を欠くが、形式、手法から見て鎌倉時代のものと認められ、その代表的優品である。
この五輪塔は現在、江戸時代の『石手寺往古図』にみられるように、石手寺裏山近くにあるが、平成7年(1995年)までは石手寺門前に建っていた。 |
|
|
 |
総高104.6cm、径59.8cm、鋳銅製で、鐘身池の間2区に陰刻の銘文がある。これによると、この鐘は興隆寺(西条市丹原町)の鐘としてつくられたが、その後管生山大宝寺(久万高原町)の所有となり、さらに転じて現在の石手寺蔵となったものである。銘文は、楷書体で、堂々たる格調をもつ書風、彫刻の技法も極めて優れている。 |
|
県指定
文化財 |
|
|
|
|
 |
涅槃図は、釈迦の入滅の姿を図絵にしたものである。この図は、絹本の着色で、縦206.5センチメートル、横157.5センチメートルの掛軸仕立の一幅である。
画面の中央に横臥した釈迦を配し、その周辺に摩耶夫人・仏弟子・大衆・禽獣虫魚等が釈迦の死を嘆き悲しむ有様を、また上部には沙羅双樹が描かれている。画絹の一部には女人の毛髪を織り込まれており、当時の人々の信仰心の深さを物語る優れた仏画である。鎌倉時代の作で、剥落している部分もあるが当時の色彩をよく残している。 |
|
|
 |
この金剛力士立像は、石手寺の国宝二王門にある。四国八十八か所51番札所・石手寺の数多い文化財の中で、訪れる人が最初に目にする彫像である。
像高は、阿あ形が253.5cm、吽うん形が251cmで、太造りの堂々たる像である。
材は厚く、構造は堅固で、筋骨たくましい表現は、鎌倉彫刻の的確な写実、剛建な作風を余すところなく示している。 製作の年代は鎌倉時代後期、運慶派の作と伝えられる。 |
|
|
 |
この3像は、重要文化財・石手寺護摩堂に安置されており、三尊一具である。
像高は、中尊の不動明王像が51.8cm、二童子像が27cmと27.6cmで、いずれも一木造りである。
中尊は、巻髪の強い彫り口、天地眼を刻む面相の的確なかたどり、衣文えもんの深い刀法など、美しい作である。また、二童子の肉づきのよい愛くるしい童顔はこころにくいばかりである。鎌倉時代中期の巧技を今日によく伝えている。 |
|
|
 |
石手寺に伝わる行道面ぎょうどうめんは20面あまりあるが、そのうち2面が童子風の天人面である。面裏に鎌倉時代末期の弘安2年(1279年)の年紀とともに「天童」と銘記している。天童は、供養会や来迎会などの法会で聖衆が練り歩く際に、幡ばんや傘蓋をもってそれぞれ先導したり、従ったりする童子と考えられる。
天童面は髪を左右に振り分け、角髪みずらを結う点に特色があるが、この面の場合、さらに頭頂に角状の飾りをつけている。
この天人面は、2面1組で使用されたと考えられるが、それぞれ表情や顔色を微妙に変えていて興味深い。 |
|
|
 |
この2頭の獅子頭は、平型、大振りで迫力があり、古い様式を残しているといわれる。
頭の高さは30〜32cm、前後が47〜48cm、張りが41〜45cm、松材を用いている。
獅子は昔から悪魔を払うものとして庶民の生活の中に生きてきた。石手寺では、鎌倉時代から「練り供養」が行われ始めたといわれ、この獅子頭は、天人面を含む行道面ぎょうどうめんとともに、この法会に使用されていたと考えられる。鎌倉時代末期の作である。 |
|
|
 |
この面は、石手寺に伝承される行道面ぎょうどうめんである。
行道面とは、僧が法会ほうえ、儀式の際、列をつくって内陣や堂内を賛偈さんげを唱えながら練り歩くときに用いる仮面である。伎楽面に次いで古く、舞楽面や能面への過渡的な存在である。音楽、舞踊に関係がないため表情に乏しいのが特徴である。
石手寺の行道面は、古例の整った大振りのもので、中には慶派仏師によって作られたとみられる面の一部含まれており、古いものの数例は鎌倉時代末期にまでさかのぼるものがある。 |
|
|

 |
大壇だいだんとは、密教道場の中心に置く基本的な修法壇で、本壇のことをいう。
この大壇だいだんは、総高31.4cm、方130cm、桧材である。
甲板は3枚板の矧ぎ合わせ、塗装は錆下地に黒漆を塗っている。
各側面は3区の框かまちに格狭間こうざまをつけ、その縁に朱漆を塗った花形を飾り、中に縦連子を置き、その表面には緑青を塗っている。
この格狭間の刳形は、鎌倉時代特有の優れたものであり、本堂の須弥壇しゅみだんの様式とも一致しているので、鎌倉時代末期に製作されたものと推定される。 |
|
|
 |
礼盤らいばんは、寺院で本尊の前にあって、導師が上って仏に礼拝する半畳の床子である。
この礼盤は、総高23.5cm、方70cm、檜材の箱形で、各側面の框かまちには2区ずつ無地の格狭間こうざまがある。格狭間こうざまには塗装がないが、その外側の面には黒漆塗りを施した痕跡がある。
裏面に、永正11年(1514年)の銘文があり、室町時代の作として、歴史資料としても価値が高いものである。 |
|
|
 |
三鈷鈴さんこれいとは、先が三叉に分かれた金剛杵こんごうしょ(三鈷)の一方の端に鈴を取付けた法具であり、密教で煩悩を破り菩提心を起こすためのものである。
この鈴は高さ17.3cm、鈴身高6.5cm、口径7.4cm、鈷長2.7cmである。
これと同形同様の三鈷鈴が京都・仁和寺と延暦寺の滋賀院にあり、伝教大師最澄が用いた松虫鈴・鈴虫鈴と伝えられている。宋時代の西域地方の所産と推定される。
。 |
|
|
市指定
文化財 |
|
|
|
|
 |
当初の掛仏は、従来神社の御零代として祀られていた鏡の表に神像や本地仏をあらわしたものである。掛仏は、銅の円板に浮彫りの仏像や台座、光背などの装厳具をとりつけ、周囲に覆輪を回し、上部に釣り手環をつけたものが多いが、時代とともに形式にも幾多の変遷がみられる。
この掛仏は、応永22年(1415年)の年紀があるもので、この時代の形式、信仰を知る上で極めて貴重なものである。 |
|
|
 |
現在の石手寺阿弥陀堂は、むかし本堂であった。室町時代以前は、塔と本堂を対立して建て、本堂の前に1基の燈籠が置かれたといわれる。
阿弥陀堂の正面左側にある燈籠の鉄製の基壇部分に「嘉元4年(1306年)2月安養寺」と陽鋳の記銘がある。この台座のみが当時のものであり、その他の部分は後世の石造春日燈籠で、付け加えたものである。この燈籠基台の銘文は、石手寺を知るうえで、最古の記録として貴重である。石手寺の旧名である安養寺という寺号が出て来る文献は、永禄10年(1567年)の記銘のある河野通宣の「刻板」に刻まれた「豫州安養寺」と、この基台である。 |
|
|
 |
石手寺の所蔵にかかる『石手寺文書』は10通から成り、そのうちに制札、棟札各々1通を含む。文書は天文8年(1539年)から、元和8年(1622年)に至る。これら各文書について記述する。
1.河野(弾正少弼)通直安堵状 河野通直(弾正少弼、のち龍穏寺殿といい、1572年逝去)が天文8年(1539年)7月22日に、石手寺の支院である地蔵院に出した寺務安堵状である。同寺は32坊もあり隆盛を誇ったが、現在は地蔵院のみが存在する。
2.河野晴通安堵状 河野晴通(六郎・通政・法雲寺殿といい、1543年逝去)が天文11年(1542年)に保童院、地蔵院に出して寺務安堵状である。
3.河野(弾正少弼) 通直安堵状 前記1.の河野通直が天文13年(1544年)6月22日に地蔵院主に対し、同院及び中林坊の寺務を安堵したものである。この文書では、地蔵院の下の「深宗」の2字が異筆であって、後日の書き入れと考えられる。
4.村上通康安堵状 河野通直に仕えた豪族村上通康(野間郡来島城主)が、永禄元年(1558年)9月23日に、石手寺に与えた事務安堵状である。この文書のなかで、最初の「与州石手」の4字は後日に摺り消され、書きかえられたと考えられる。
5.河野牛福丸通直安堵状 河野通直(牛福丸といい、同氏の正系を継いだが豊臣秀吉の四国征伐にあい下野する、1587年逝去)が、天正12年(1584年)9月18日に、石手寺の生尊坊に対して支院の住持職を安堵したものである。
6.加藤嘉明寄進状 加藤嘉明は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの功労により石高20万石に加増されたので、その翌6年に徳川家康に対し、松山築城の許可を具申して、その許可を受けることができた。嘉明が温泉郡畑寺村で200石の地を石手寺に寄進した時の文書である。
7.加藤明成禁制 明成は、嘉明の子であって、父を援けて藩政に貢献していた。石手寺に対し、慶長11年(1606年)2月に出した彼の禁制のなかの「花」は、桜花と推定される。それは古くから同寺が桜の名所といわれていたことによって知られる。
8.加藤明成判物 明成が、慶長20年(1615年)11月に、石手寺の宿坊、法印の屋敷地に対し、免税の特権を承認した書状である。
9.加藤嘉明掟書 嘉明が、元和8年(1622年)1月に、石手寺住職の実雄に対し、同寺の掟を守り、伽藍堂塔等の補修、法要の励行につとめ、住職の後任には実弟甚賢を相続させるよう規定したものである。 |
|
|
 |
この石剣は、有柄式磨製石剣の部類に属するものであり、朝鮮半島南部で盛行し、対島・北九州で集中的に出土し、つづいて、松山平野南部で多く発見されている。
形態的には、粘板岩形の石材を磨研して製作し、有柄式鉄剣に模している。粘板岩は、粘土が固結して生じた黒色緻密な堆積岩の一種で、薄く剥げやすく、スレート、石盤、硯石などに用いる岩石である。厚さは7mmと薄手であり、剣身部は広く(最大部38mm・56mm)、その断面は菱状(◇)になる。表裏とも中央部に強い稜を有し、両刃になっている。剣先部は鋭く尖るものである。
これらのことから、剣身幅が広く斬るにも適し、突き刺すこともできる形であるが、材質から、非実用品で祭器的な性格を有するものと考えられる。さらに、朝鮮との交流や銅剣との関連を示すものとも言える。 |
|
|
 |
河野弾正少弼通直(〜1572年)が、永禄5年(1562年)12月に石手寺僧侶に対し、道後温泉への入浴日を指定し、その他の留湯をしてはならない旨を通告したものである。現在の制札は板に墨書され、浴場に掲げられたようであるが、おそらく文書の写しと思われる。 |
|
|
    |
寛文13年(1673年)と、寛延2年(1749年)の修理棟札である。 |
|
|
元文元年(1736年)の修理棟札である。 |
|
|

 |
石手寺裏から瀬戸風峠を含む岐丘陵一帯には数十基の古墳群があるといわれている。尾根沿いの平坦部には、古くから箱式石棺や土壙の存在が知られており、弥生時代から古墳時代にかけて墓域として活用された地域と考えられている。
現在知られているものの多くは円墳であり、内部主体は箱式石棺と横穴式石室の造りになっている。
この1号墳と2号墳は、ともに横穴式石室で、羨道せんどう部はほとんど退化している。
円墳の復元値は直径10m内外と推定される。また、1号墳の玄室内部に、日・月の線刻図が見られると言われたが、現在はさだかではなく、副葬品等も不明である。 |
|
|
 |
「みかえりの桜」は、植物学上イトザクラ(糸桜)またはシダレザクラ(枝垂桜)といい、本州・四国・九州に生えるエドヒガンの仲間で、枝が垂れ下がる点が異なる。この「みかえりの桜」は、石手寺山門(二王門)のすぐ前を右に進み、つきあたりの庭の右方に見られる。根回り1.9m、樹高6m、枝張り12m余、四方に張り出した枝は、無数の小枝をあたかも糸のように垂れている。花はソメイヨシノに先だって咲き、普通4月初めに盛期となる。色はうす桃色で、その枝垂れる姿はまことに優美である。
松山城主加藤嘉明の子の明成がこの寺に花見に訪れたとき、帰去にあたって、さらにこの桜を振り返り、その美しさを嘆賞したことからこの名がついたといわれる。石手寺には慶長11年(1606年)、明成がこの寺の花を折り取ることを禁じた文書が残されている。 |
|
|
|